好きな短歌について自己分析

読み終えた後もある一フレーズがフラッシュバックのように鮮やかによみがえる文章が好きです。
私にとってはそう感じる文章は女性か、(理想的な)女性の視点を上手に描く男性作家の文章に多いです。
たとえば、北村薫近藤史恵などがそうかな。


短歌は違うのです。上手だな、と思う短歌、素敵な一瞬を切り取っている短歌は数多くあれども心に残る、思わず口ずさむ短歌は何故か男性のものが多い。
ただし短歌を詠む男性というのに憧れてるだけかも、とは思わなくもないようなそうでもないような(どっち?)
もうかなり前になるけれど、「眠れない夜はケータイ短歌」という番組がNHK教育でありました。
心に残りふっと折に触れて思い出す歌があります。
それが伊勢悟史さまの短歌なのです。
タンタカタンカ より。
(遅まきながらのトラックバック失礼します。ご挨拶にもうかがいます)

夏の夜と冬の朝とをともにして僕らは何も変わらなかった


次々に良い作品を夏の映像をバックにナレーションで紹介していくコーナーでした。
相方とご飯を食べながら見ていたのですが、この歌のあとはしばらく、お箸が留まっちゃいました。
余韻を楽しむうちにどんどん次の歌が紹介されていて、
相方は相方で「え、今のどういう意味?」とか無粋な質問をしてきたりしていましたがムシ(笑)


何も変わらない、というところが、「僕ら」の関係性*1によってはネガティヴな表現かもしれませんが、短歌の題材として素敵だと思います。
それを悔いているようにも読めますが、ひょっとしたらそうではないのかもしれない。
変わらないこともひとつの価値でしょうし。
夏の夜はどういう風に過ごしたのか、冬の朝を迎えたときの二人(ではないかもしれない)はどうだったのか。
そこで「何もなかった」から変わらなかったのか、「何かがあった」にもかかわらず変わらなかったのか。
想像が膨らむのです。三十一文字の醍醐味ですね。
いつかは、こんな短歌を詠めるようになりたいと思うのです、け、ど。
見果てぬ夢かもしれないということも重々承知の上ですので「お前にゃ無理だ」とは言わないで(泣)


もうお一方、私が勝手にファンになりこっそり追いかけているのが出石正比古さま。(こちらはid:mas0721:20040726より)

もう声を聴けないこととただ声を聴かないことを分かつ稜線

その二つの事柄の間には谷があるんじゃなくて、尾根があるのですね。
青々と葉を茂らせた樹木があるのか、寒風吹きすさぶ荒涼たる雪山なのか、どちらなんでしょうね。
シンプルに感じられるのですが、「稜線」なんて言葉が私にはぜっっっっったいに!!使えないであろう…
という点において語彙の豊富さではなく、どこでそれを持ってくるか、というセンスが短歌には必要だと痛いほど実感させられ、ちょっぴり凹んだ短歌です。
でも好きなんだもん、読むのも詠むのも。<あ、開き直った


最近も懲りもせず、ぽちぽちと短歌を思いついては携帯にメモっているのですが
深夜に書いた手紙と一緒で推敲しようとすると我ながら恥ずかしかったり、着眼点自体が今ひとつ切れ味に欠けるというか、推敲によって改善されるとは思えなかったりで
結局自分の中でその題材についての旬を逃してしまっています。
というわけで大好きな短歌の後に自分のへぼ短歌をうpするのはつらいし、かといってテーマ的にもう遅いので
ここは涙をのんでお蔵入りさせてしまう予定です。

*1:どういう「僕ら」かは分かりませんもの